4日ぶりに登校した学校は、まるで初めてそこを訪れた日のようであった。クラスの生徒たちのどの顔にも初対面の時のような戸惑いが見えた。

帰り間際、うかない顔で教科書を鞄に詰め込み、昨日の海岸での正己の言葉を思い出していると、和也は北川に呼びとめられた。

「もう学校に出て来ないんじゃないかって心配しちゃった……」

北川の澄んだ声には和也に同情しながらも、一方で責め立てているような響きがあった。

「そんなことはないさ」

「藤樹君が休んでる間、私、担任の先生に話したの……米多君たちがあんまりひどいから、ホームルームにかけたらって」

「もういいよ、イジメられてるぼくも悪いんだから」

「どういうこと?」

「いろいろ考えてみたんだ。休んでる間……彼らも悪いかもしれないけど、僕にも責任があるんじゃないかって」

「わかんないわ」

どこか以前と違う和也に、北川は面食らったような顔をした。

「わかんなくたっていいさ、とにかくホームルームはよして欲しい。みんなに同情してもらっても仕方のないことだから。僕の力で解決しなきゃならないことだから」

「余計なことだった?」

「心配してくれるのは嬉しいけど、でもやっぱりこれは僕の問題だから、僕が自分で片づける以外ないから……」

「なんか今までの藤樹君と違うみたい」

北川は探るような目で和也の瞳の奥までも覗き見た。北川の顔をまじかに見て、和也は照れた。形のいい鼻が少しばかり上を向いて、一重の目が気の強そうな印象を与えたが、きめの細かい白い肌と、品のある顎の曲線が亡くなった和恵を思い出させた。

「も、もう学校、休んだりしないから、だいじょうぶだよ」

北川の小鳥のようなつぶらな瞳にどんな自分が映っているのだろうかと思うと、和也は言葉がもつれた。

「ありがとう、ほんとに」

そう言って、北川に別れを告げ、和也は教室を出ようとした。その時、

「あ、待って、藤樹君、先生が呼んでるの」

と北川が思い出したようにあわてて和也の背中に声をかけた。

放課後の職員室はほとんどの教師が部活の指導で出払っていた。数人の教師が手持無沙汰にしていた。担任の香村は和也に休んだ理由と米多たちから受けた嫌がらせの内容を訊いた。

「北川からだいたい話はきいた。それにしてもちょっと度が過ぎるな、米多たちも」

香村は腕を組み、深刻そうに眉をひそめた。

「前の中学じゃあどうだった。やっぱり同じようなことがあったか?」

その香村の質問は和也には屈辱的だった。

「ありません。一度も」

唇を少し引き締めてから、きっぱりと和也は言いきった。

「そうか、そうか、いや、もしかしてと思って、気を悪くするな」

「学校、休んでる間にいろいろ考えました……」

「ほう、何を考えた」

「ぼくにも悪いところがあるんじゃないかって……」

「悪いところとは?」

「ぼくがしっかりしないからです」

「ふうん……」

「前の中学で同級生が飛び降りて死んだんです……そんなに親しくはなかったんですけど……みんなからイジメられてました……おとなしい奴で、イジメられても抵抗もしなかったし……それでイジメるほうも調子に乗って……だからイジメるほうも悪いけど、イジメられるぼくにも問題があるんじゃないかって……」

「ふうん……」

「きのう、海岸で、父さんといろいろ話して……それで……僕が弱虫だからみんなが僕に強くなれって鍛えてくれてるんだって……僕が弱いからみんなが強くなるまで目をかけてくれてるんだって、僕が強い人間になれば、誰も僕を相手をしなくなるって……確かにそうかもしれないって……僕も思って……父さんはイジメてくれる連中にかえって感謝しなきゃいけないって……まだとても僕はそんな気持ちにはなれませんけど……」

「ふうん……なかなかいいことをおっしゃるじゃないか、藤樹のお父さんも」

「ときどき、そんなふうに、逆に考えるんです……うちの父さん……でもそう言われてみるとそうかもしれないし……」

「そうかもしれんな、確かに……藤樹が今よりもっとたくましくなれば、米多たちだって一目おくようになるかもしれんし……みんなも見る目が変わるかもしれんな……そうか、お父さんもおもしろいことおっしゃるな。イジメが藤樹のたくましさを計るバロメーターってわけか……そうか、そうか」

担任は目を細め、口もとに笑みを浮かた。

「先生にも心配かけましたけど、もうだいじょうぶですから……」

「そうか、そうか」

担任は満足げに腕を組んだままうなずいた。

担任に挨拶をして、職員室を出ると、和也は下足場へと向かった。階段を降りると、すぐ前のグラウンドから、部活で汗を流す野球部や陸上部の生徒たちの掛け声が聞こえてきた。溌刺とした若い声が5月の空に響いていた。

スニーカーに履き替えようとしている時、横をボールを両脇に抱えたサッカー部員が冗談を言いながら走り過ぎて行った。何かクラブ活動に参加してみるのもいいかもしれない。ほのかな羨望を含んだ眼差しで彼らの汗の滲んだジャージを目で追った。

靴を履き替え、鞄を手に持って帰ろうとした時、なにげなく和也は横を見やった。誰かに見つめられているような気がしたのだ。何か鋭い視線を背後に感じた。

その胸さわぎは的中した。すぐ横の校舎のガラス戸を一枚隔てた奥に、飴色の西日を受けて米多が数人の生徒とたむろしていた。いつか和也を恐喝した片倉という生徒の姿もそこにあった。

なんとなく不穏な空気を彼らから嗅ぎ取り、一刻もそこから離れることが得策だと判断すると、和也は彼らを見て見ぬ振りをし、そこを離れた。

校門を抜けて、大通りに出ると、なるべく人通りの多い所を急ぎ足で歩いた。途中、何気なく後ろを振り向くと、米多たちが一定の間隔を保ちながら後を追ってきているのがわかった。わざと賑やかな商店街に紛れ込み、彼らの追跡をかわそうとしたが、人波を掻き分けるようにして彼らは執拗に追ってきた。

商店街を抜けた先にバス停があり、同じ中学の生徒たちや勤め帰りの人々が塊になって並んでいた。必死の形相でそこにたどり着くと、その列の中に紛れ込み、固唾を呑んでバスの到着を待った。バスは運よくすぐに来た。駆け上がるようにしてバスに乗ると、死角になりやすい後部座席に座り、身をかがめた。

しかしほっとしたのもつかの間だった。バスの発車直前になって米多たちが乗り込んできたのだ。刺々しい目をして、彼らはバスの中を見回していた。彼らの1人と目が合った時、和也の背中をひんやりとしたものが走った。

和也の居場所がわかると、彼らはぞろぞろと和也の座席近くまでにじり寄ってきた。バスは下校の生徒や通勤客で混み合い、座席はすべて埋まり、つり皮も掴めないほどだった。和也はじっと目を閉じて彼らの出方をうかがった。乗客の目がある間は、乱暴なことは出来ないだろう……。

バスは何度か停留場へ止まると、乗客を降ろし、またその3分の1ほどの新しい乗客を乗せて発車した。それが何度か繰り返され、ざわついた空気が周りから希薄になった頃、和也はそっと目を開けてバスの中の様子をうかがった。目を閉じる前の半数の客がいなくなっていた。ふと顔を上げると、驚いたことに彼らの1人がつり皮につかまって、ガムをかみながら不敵な光を目にたたえ、見下ろしていた。米多や片倉の姿は近くには見えなかった。どうやら前の空いた席に座っているらしい。

窓の外は太陽がすっかり勢いを失い、枯れた光を街の間に落としていた。和也はバスの窓に灰色に映った自分の顔を見ながら、なんとかこの窮地から脱することはできないものかと思案した。

それからしばらくして和也の家の近くの見慣れた風景がバスの窓から見えてきた。座席は空席が目立ち、立っているのは和也を見張っている生徒だけになった。

やがてバスは和也が毎朝夕乗り降りしているいつもの停留場へ着いた。意をけっして和也は立ち上がった。が、その時、それまで和也の横にぴったりとくっついていた生徒が和也の肩を片手で押さえつけ、それを阻止しようとした。あまりにその力が強かったので、もろくも和也はそこで腰がひるみ、再び座席に押し戻されてしまった。顎から頬にかけてにきびの跡が残ったその少年はまるで脅しかけるかのように体ごと和也に覆い被さり、無言のうちに一歩もそこを動けないことをにおわせた。

そのうちにバスは発車し、樹木のおい茂った物寂しい山道を突き進んで行った。このまま終点まで連れていくつもりだろうか……和也の膝が恐怖で震えた。バスが揺れるたびに心臓がびくついた。乗客はほとんど下車し、歯の抜けた口のようになった車内の中ほどに米多や片倉の後ろ姿が見えた。4人ほどがこの策謀に加担しているようだった。

バスは和也の見知らぬ緩やかなカーブばかりの続く、日の傾いた坂道をひた走っていた。しだいに乗車する客はいなくなり、下車する客ばかりになってしまった。そして、和也の傍に座っていた客が全て降り、周りががらんと穴の空いたようになった時。それまで車内の中央付近に腰掛けていた米多たちが急に席を立ち、和也のいる後部座席の方へと近付いて、通りすがりに和也を見下ろし、口を薄く開け、気味の悪い笑みを浮かべながら和也の真後ろの席へどっかりと腰を下ろした。和也の横には見張り役をしていた少年が横柄な態度で足を広げて座り、据わったような目をしてにらみをきかせた。片倉は和也の斜め前の席に足を前に投げ出して座り、帽子を目深にかぶって眠ったようなふりをしていた。

「どこまで帰るの?」

和也の真後ろに座っていた米多が和也の後頭部を人差し指でつつきながら、調子外れな声で訊いてきた。和也は何も答えることが出来なかった。

「君んち、もう、通り過ぎたんじゃないの?」

ふざけたような声で米多が和也を愚弄した。和也は悔しさにうち震えた。

バスの外に見えていた家々の明かりが途切れがちになり、バスは終点への到着が間もないことを告げた。そして何度目かのカーブを曲がり、腰のあたりに軽い衝撃を感じてバスが終点の一つ手前の停留場に止まった時、和也は横に座っていた少年に腕を無理やり掴まれ、座席から引っ張り出され、米多や片倉に取り囲まれるようにして、バスから引きずり降ろされた。

バスから降りると、和也は彼らに腕を強く掴まれ、そこから数分ほど歩いた削り取られた山の斜面の開墾地のような所へ連れて行かれた。そこに人けはなく、すでに暮色に包まれたその辺りには肌寒い夜気が忍び寄っていた。周囲には黒い松が影絵のように群がり、かさついた灰色の空を隠し、濃い闇を作っていた。林立する松の向こうに青い海のざわめきを見たような気もしたが、土地感のまるでない和也にはそこがどのあたりなのかまったく見当もつかなかった。

「おめえ。先公に俺たちのことをチクったらしいな。東京から来たからってエバってんじゃねえぞ」

バスに乗っていた間、ずっと横にいた少年が和也の胸元を掴み、口に含んでいたガムを和也に吐きかけ、言った。

「そ、そんなつもりはありません」

「その態度が気にくわねえんだよ」

米多の跳ね上がったような声だった。

「まあ、俺らに逆らうとどうなるかようおぼえとけ」

和也の耳元でどすの利いた声を片倉が発した。それが和也が連中から聞いた最後の言葉だった。その直後に痛烈な衝撃が和也の頬を走った。よろめいて2、3歩後ろに後ずさりすると、彼らの1人が背後に廻り、倒れないよう和也を支えた。

そのすぐあとであった。米多の足蹴りがまるでナイフのように深々と和也の腹部に突き刺さったのは。あまりの激痛に、和也は立っていられなくなり、後ろに倒れそうになった。が、今度は片倉が和也の胸元を掴み、自分の出番を待ちかねていたかのように和也を引き寄せ、拳を握りしめ、和也の下顎にかけて強烈な一撃を浴びせた。

和也の目の前で青い光がはじけた。固い土に膝を打ち付け、ひれ伏すように屈み、そのままうずくまってしまった。腹部に受けた痛みで立ち上がることも出来なかった。そんな和也にさらに追いうちをかけるように、片倉たちは和也に足蹴りを加え、いたぶった。冷たい土にうつ伏せになった和也に、彼らの容赦のない攻撃が降り注いだ。土埃が和也の目や口をふさぎ、呼吸することもままならなかった。

米多たちの手心を加えぬ連打は止みそうもなかった。このままここで連中になぶりものにされて死ぬかもしれない……意識が煙のようにたなびいて肉体から抜け出し、体が干からびた剥製のようになってしまったかのようだった。

次第に薄れていく意識の中にトモナガが飛び降りた時に見た、空に舞う黒い学生服の幻影が記憶の隅から目をさました。さらにあの時聞いたヒステリックなサイレンの音までもが耳の底でよみがえった。あの時の胸騒ぎが全貌を現したかのようだった。

このままここで命が尽きるかもしれない……しびれたように霞んでいく意識の中で、一瞬、3年前に亡くなった母の姿をかいま見たような気がした。

(母さん……母さん……)

和也は手を伸ばし、母の幻影に触れようとした。

(……母さん……母さん……何故ぼくを残して、行ってしまったの……)

和也は闇に映った優しい母の面影を追いかけるかのように、ありったけの力を振り絞って体を起こし、立ち上がろうとした。が、その時、待ち構えていたような片倉の足蹴りが和也の胸に炸裂し、和也の必死の奮起は微塵にも打ち砕かれてしまった。

真後ろに和也は倒れ、後頭部をじかに地面に打ちつけ、その瞬間熱い血の逆流のようなものを感じた。仰向けに倒れた時、濁った視界に深い闇に変わる前の不安定な空の色とくっきりとした形のよい三日月が迫った。もうこれで何もかも見納めかもしれない……和也はまるで夢でも見ているかのようにうっとりと目を閉じた。

----- そして、その直後、米多たちの攻撃がぴたりと止まった。

体の節々を走る痛みで、まだ肉体と意識がつながっていることを和也はおぼろげながらも認識した。助かったという安堵感と、いっそこのまま死んでしまったほうがよかったかもしれないという思いが、もつれた糸のように複雑にからまっていた。和也は挨にまみれた瞼を薄く開け、彼らの様子をうかがった。気がすんでこの場から立ち去ったのかもしれない……。

が、その思いもすぐさま空気を抜かれた風船のようにしぼんでしまった。依然として彼らはすぐ傍に立ちつくしたままでいた。

が、何故か彼らの様子が妙だった。まるで意志を持たない人形のように闇の表面で立ちすくんでいた。一体、何が……和也は磨滅したレンズのような焦点の合わない目をうつろにあたりに這わせた。

その時、4つの黒い影のほかに、もう一つの大きなそれがすぐ傍にそびえ立っているのが見えた。米多たちはその影に尻込みをしておびえているかのようだった。

そして、その5番目の影と米多たちとの乱闘が始まった。

大柄なその影は容赦なく彼らを無造作に掴み上げると、肉のはじけるような音をさせ、1人ずつ夜のとばりに放り投げた。圧倒的な強さであった。かなり喧嘩慣れしているようだった。米多たちは今にも逃げ出さんとばかりにおよび腰で狼狽していた。

影は米多をはがい締めにすると、地面に組み敷き、足蹴りをくらわせた。他の連中はそれをただ見ているだけで誰も彼を助けようとしなかった。米多が悲鳴をあげながら影に殴られている間に片倉たちはその場から逃げ去ろうとした。が、影はそれを許さなかった。まるで乱闘を好んでいるかのようだった。次に片倉を捕らえ、首元を掴んで滅多打ちにし、反撃に出る隙も与えず、ねじ伏せた。残りの2人も同様にして影は徹底的にいたぶった。

和也の霞む視界にほうほうの体で逃げる米多たちの姿が映った。だが気を失い、その後の記憶は全て和也の意識の深い底へと潜んでしまった。


9.窓の隙間から差し込む朝の光 >


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