8月半ばのある日、和也は瀬田が飛んでみせると言っていた島の頂きに立った。
その日、いつになく空は爽快に晴れ渡っていた。肌を焦がす真夏の炎熱はどこか遥か海洋に行き去り、そこに残っているのは夏の盛りの間、大気の隙間にじっと潜み、放たれる時期を待っていた肌に吸いつくような、まぎれもなく夏の終わりの間近いことをほのめかす適度な湿気だけだった。

眼前には紺青の日本海が重々しく揺らぎ、その上ではあまねく夏の終わりの大気が風のごとく飛来していた。海は静かに凪いではいたが、どこか台風の前の日の平静を装った油断のならないそれにも似ていた。

和也は断崖の頂きから真下を覗き見た。足もとの遥か下方では白い波頭が島の根をなめ、海底に隠れていた獰猛さが海上でまだらに砕け散っていた。

トモナガが飛び降りて死んだあの高さ……両足が朽ちた枝木のように細々として、そのうちぽっきりと折れてしまいそうな心細さを覚えた。どうかすると、溶けた蝋細工のように、その場に平伏しそうだった。ずいぶん無謀なことをしようとしているのではという思いが幾度も頭をかすめた。

どうしてもここから飛ぶ……いや、思ったより高い……もし、怪我をしたら……だいじょうぶ、飛び込む辺りに危険な岩はない……もう十分調べ尽くした……やっぱり怖くなったか……臆病者め……いや、臆病者なんかじゃない……自分はもう以前の自分じゃない……でも、もしものことがあると……定まらない思いが和也の中でぐつぐつと煮立った。尖った不安が胸を突いた。

こみあげる恐怖と混乱の間に立ちすくんだまま、和也は割れたガラスの破片を一つひとつ拾い集めるかのように、分裂した思いを手元へと引き寄せた。できる……必ずできる……瀬田が守ってくれる……目を閉じ、意志が鉄芯のように固まるのを待った。そしてしばらくの間、瀬田と過ごした夏の日々を振り返った。瀬田と戯れた夏の海が、懸命に泳いだ夏の日々が鮮やかに色彩を帯び、脳裏にくっきりとよみがえった。瀬田が波間から真っ黒な顔を出し、片腕を上げ、ここまで来いと言って笑っている。

和也は目を開けると顔を真っすぐあげ、前方だけを見た。眼前の晴れ渡ったすがすがしい空から微細な光の雫が滴り落ち、最後の夏の輝きとなって大気にきらめく光彩を与えていた。ほとばしる光の洪水が和也をくるんだ。このおびただしい輝きを瀬田と一緒に見たかった。……だが、その瀬田はもういない……強くたくましい生き方を教えてくれた瀬田……ぼくはもう誰にも負けやしない……ぼく自身にも……和也は急に何か強い力が腹の底でほとばしり、勢いよくこみあげて背筋を貫くのを感じた。

(さよなら……瀬田……見ててくれ……ぼくはここから飛んでみせる。そして君のぶんまで強く生きてみせる)

和也は顎を引いて、口を閉じ、軽く歯を噛み、腹に力をこめ、そして幾分膝を曲げ、そのままの体勢でしばらく目を閉じ、大空に舞う自分の姿を思い描いた。まばゆい太陽に、澄み渡った青い空に、むくれあがった白い積乱雲に、ゆったりと凪いだ光の乱れる穏やかな海に、そして夏のきらめきに溶けて輝く自分の姿を閉じた瞼の裏にはっきりと映し出した。和也はゆっくりと目を開けた。

そして----、飛んだ。

手足を思いっきり伸ばし、コバルトの空に向かって高く飛んだ。耳に強い圧迫感と体中に痛烈な風圧を感じた。だが不思議に落ちていく恐怖感はなかった。体にあたる大気がまるで研いだカミソリのようだ。まるごと皮膚を削り取られ、体の芯までもくり抜かれそうだ。海が迫るにつれ、その感触はさらに増した。が、決して不愉快な感覚ではなかった。14年間かけて培った自我が一枚一枚めくり取られ、生誕したばかりの無垢な自我に立ち返っていくかのようだ。

落下しているのではなく、まるで上昇しているかのようだった。目前の海の照り返しが、あの日、トモナガが飛び降り自殺をした時に窓から仰いだ空の輝きにも似て見えた。自らの存在を抹消してまでも、トモナガはあの輝きに手を伸ばそうとした……だがそこにトモナガの望んでいた世界が開かれていただろうか……和也はそれを否定した。自らの命を断ち切ろうとした時、それは永遠に光を閉ざした世界に変わったに違いない。今、自分は強く生きるために飛んでいる……死んでいった瀬田の分まで強く生き抜くために飛んでいるのだ。

海が、純白にはじけた。

一瞬、鞭で叩かれたように体がしなった。体中の細胞が衝撃に飛び跳ねた。ついで研ぎ澄まされた海の冷気が氷の槍となって全身を貫いた。深く落ちた海の底で張り裂けそうな痛覚に和也の五体は襲われた。得体のしれない恐怖が四方で口を開けていた。無我夢中で、暗い海を手元にたぐり寄せ、もがき、掻き分け、海面を目指した。

海上に顔を出した時、世界は和也の視界に小さくおさまった。波の上で意識が粉々に打ち砕かれ、森羅万象にそれが帰一してしまったかのようだった。

やった……とうとうやった……高揚感に和也はうち震えた。紺碧の海に顔だけ出し、達成感に酔いしれた。おだやかな波の上に、落ちた陽光がおり重なって、海面は光の饗宴に沸いていた。体に触れる海水がぴったりと皮膚に心地良く馴染んでいた。

波間に漂いながら、ふと手足が満足に胴体に付いているかどうか気になった。あわてて海中で手足をばたつかせてみた。むろん手足がひきちぎれ、海に呑まれているはずもなかった。そのうちそんなことを気にしている自分が滑稽に思えておかしくなった。口もとがゆるんで思わず笑いが漏れた。

和也はその笑いを波に乗せ、岩にぶつけ、空に放ち、海鳥たちに聞かせ、雲に乗せた。そして海上に出した顔をもう一度海中に沈めると、海水を口いっぱいに含み、それをまばゆい夏の輝きにあふれた青い空に向かって勢いよく吹き上げた。瀬田がよくやっていたクジラの潮吹きを真似たのだ。

今しがた飛んだばかりの島の上で輝いている太陽が、和也の濡れた黒い肩に光を投げかけていた。和也はそれを見とどけると体を反転させ、クロールで沖に向かって泳ぎ出した。

力尽きるまで、気の済むまで泳ぐつもりだった。




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