8月も半ば近くになると海はとたんに黒みがかった色を見せ始めた。ふくよかに盛り上がった白い雲を浮かべたのどかな空の風景とは対照的に、時おり季節の変わり目を告げるような刺立った波が海洋を白く噛み、殺伐としてきた。

沖合いの遊泳区域を示す小さな黄色いウキたちは、ロープもろとも浜辺近くまで押し流され、その役割を終えるべきか戸惑いをみせていた。忍び寄る秋めいた風に、海水客は次第に海に背を向け、夏の間占領した海辺を地元の人間たちの手に戻そうと、ようやく腰を上げ始めた。

夏が日増しに衰退していくのが誰の目にもはっきりとわかった。夏の勢いは、砂浜に埋もれたジュースの空き缶や日焼けオイルのプラスチックの容器の中に閉じ込められ、もはや海水客の利用しなくなった脱衣所にはみられない。

この夏のことは一生忘れないだろう……大人になって、いつかまた生きることに思い迷うことがあっても、14歳の少年のままでいつも微笑みかけてくれる瀬田と、この夏の記憶さえあればどんな困難にも立ち向かっていける……。人影のまばらな陽の陰った砂浜に座り、和也は瀬田との楽しかった日々を振り返った。

和也は、瀬田と思われる家から持ち帰ったランニングシャツを砂の上に広げ、ライターで火をつけた。和也なりの瀬田への弔いであった。瀬田が好きだった海にシャツの燃えがらを流したいと思った。

シャツは端から煙をたて、少しずつ、ゆっくりと赤い波状の帯となってめくれていった。赤く燃え、黒く焦げ、灰色に萎んでいく瀬田の痕跡。灰が風で飛ばないように、両手で囲い、いつまでもそれを眺め続けた。

昼間の輝きをすっかり失った暗い海は、潮騒の音だけを残して深い静かな眠りにつこうとしている。時おり、海鳥の鳴き声が聞こえてくるが、耳をつんざくような勢いはすでにない。急速に冷えていく砂上を大気が悠然と流れ、海上には灯台の明かりだけがぽっかりと浮かんでいた。

シャツは、幾分、白い切れ端を残して燃え、後に塵のような灰を残した。砂混じりのそれを両手ですくい取ると、和也は薄闇に包まれた海へと向かって歩いた。

波打ち際では、小さな波が、濡れて湿ったきざみ模様を砂面に残していた。砂に埋もれていた貝が波に洗われ、小さく震えている。

シャツの燃えがらをゆっくり海面に寝かせると、夕暮れのざらついた海に白と灰が混ざり、揺らいだ。一瞬、そこに瀬田の顔が浮かんだような気がした。どこか斜に構え、はにかんだようないつもの笑顔。手を伸ばす間もなく、すぐさまそれは、小さな波にのまれ、ほの暗い海の底へと溶け入っていった。

ひと波ごとに海は黒ずみ、次第に空との境目がはっきりしなくなっている。

和也は潤んだ瞳で海面をなぞり、空と海の境界線に視線を定めた。

燃えがらは沖に流されいつか瀬田の元へと辿り着くだろうか……。父親と2人、貧しさの中で、けなげに生きてきた瀬田。一体どんな人生だったんだろう。辛いことばかりの14年間だったかもしれない。幸せと感じるような時があっただろうか。僕に泳ぎを教えてくれていた時、君は幸せだったかい。もしそうなら、君の人生の中で、幸せを分かちあった人間としてずっと僕のことを忘れないでいて欲しい……。涙がとめどなく和也の頬を伝わった。

そのうち、「セダー」と叫びたいという衝動が胸を突き上げた。かまうもんか。誰もいやしない。和也は、遠く揺らぐ海面を見つめ、腹から絞り出すように、「セダー」と大声で叫んだ。

心残りなのは、臆病で弱虫の自分を奮起させてくれた瀬田に何も報いることができなかったこと……瀬田が生きる勇気を与えてくれた……瀬田のおかげで弱い自分と訣別することが出来た……。

和也は、両手をにぎりしめ、仁王立ちになって、暗い海のその先に向かって、何度も何度も瀬田の名を叫んだ。かわりに今度は自分が弱い者たちの支えになる……それが瀬田への恩返し……そんな思いが胸のうちで湧いた。

闇の迫った海の端に、灯台の明かりに照らされたテトラポットの盛り上がりが浮かび、その後方にいつか瀬田が指さしていた島がその突端をのぞかせていた。しっとりと濡れた波打ち際を歩いていると、自然と引き寄せられるかのように足はそこへと向かった。

(あそこから……飛ぶ……)そんな思いがふと胸を突いた。島が近付くにつれ、さらにそれは強いものとなった。まだ瀬田も飛んだことはないと言っていた……あそこから飛べば瀬田を超えられる。

飛び込むには目もくらむような高さだが、出来ないことはない。今まで、死ぬような思いで飛び込みの練習を重ねてきた。瀬田が言っていたように腹さえ据えればなんのことはない。


19. 瀬田が飛んでみせるといった島 >


Copyright© Naoya Yuuki. All Rights Reserved.